知的財産権と公共の福祉の均衡点:日本国特許法第93条「公共の利益のための強制実施権」の法理と国際政治経済学的分析

目次

第1章 序論:特許権という「聖域」とその限界

近代国家における特許制度は、発明者に対して一定期間の独占排他権を付与するという「社会契約」に基づいている。発明者は技術を公開する代償として市場における独占的地位を得、国家はそれによって産業の発達と技術の累積的進歩を促進する。このメカニズムは、資本主義経済におけるイノベーションのエンジンとして機能してきた。しかし、この私的独占権は、決して不可侵の絶対権ではない。ひとたび国民の生命、健康、あるいは国家の存立に関わる重大な危機が生じた際、私的な財産権としての特許権は、「公共の利益(Public Interest)」という上位概念との激しい緊張関係に直面することになる。

日本の特許法第93条に規定される「公共の利益のための通常実施権の設定の裁定」、通称「強制実施権(Compulsory License)」は、この緊張関係を法的に解決するための究極の安全弁として存在する制度である。特許権者の意思に反してでも、国家権力がその技術の使用を第三者に許諾するというこの強力な権限は、自由市場経済における私有財産制の例外中の例外であり、それゆえに「伝家の宝刀」とも称される。

本稿では、特許法第93条の条文構造と運用指針の緻密な解釈を出発点とし、世界貿易機関(WTO)のTRIPS協定における国際的な議論の変遷、南アフリカやブラジルにおけるHIV/AIDS治療薬を巡る歴史的闘争、そして近年のCOVID-19パンデミック下で再燃した「知財ウェーバー(IP Waiver)」論争に至るまで、この条項を取り巻く法的・政治的・経済的力学を徹底的に分析する。なぜ日本では第93条の発動事例がこれまで皆無に近いのか。なぜグローバルサウス(新興・途上国)の国々は強制実施権を強力な外交・通商交渉のカードとして用いるのか。そして、経済安全保障が叫ばれる現代において、この「抜かずの宝刀」はいかなる意味を持つのか。これらの問いに対する答えは、単なる法解釈の領域を超え、現代の国際社会における「命の価格」と「知の独占」を巡る構造的な不平等を映し出す鏡となるであろう。


第2章 日本特許法第93条の法構造と行政運用

2.1 条文の構造的分析と発動要件の厳格性

特許法第93条は、特許権の排他性を国家権力によって制限する規定であるため、その適用には極めて慎重かつ厳格な要件が課されている。条文の構成を見ると、単に行政庁が一方的に命令を下すのではなく、当事者間の自治を尊重しつつ、それが機能しない場合の最終手段として裁定が位置づけられていることが分かる。

特許法第93条(公共の利益のための通常実施権の設定の裁定)

  1. 特許発明の実施が公共の利益のため特に必要であるときは、その特許発明の実施をしようとする者は、特許権者又は専用実施権者に対し通常実施権の許諾について協議を求めることができる。
  2. 前項の協議が成立せず、又は協議をすることができないときは、その特許発明の実施をしようとする者は、経済産業大臣の裁定を請求することができる。

ここで法的論点の核心となるのは、「公共の利益のため特に必要」という文言の解釈である1。単にその技術を利用すれば便利である、あるいは経済的利益が見込まれるという程度の理由では、この要件を満たすことはできない。「特に必要」という強調語は、代替手段の欠如と緊急性を強く示唆している。

2.2 ガイドラインに見る「公共の利益」の具体的射程

特許庁が公表している「公共の利益による通常実施権の設定の裁定に関するガイドライン」2は、この抽象的な法的要件を行政実務レベルで具体化している。同ガイドラインによれば、「公共の利益」の射程は主に以下の領域に限定されると解釈されている。

第一に、**「国民生活への直接的影響」**である。これには、国民の生命、健康、財産の保全に直結する分野が含まれる。具体的には、致死率の高い感染症のパンデミック発生時におけるワクチンや治療薬の確保、大規模災害時における復旧技術、あるいは原子力発電所の事故対応のような国家安全保障レベルの危機管理が想定される。

第二に、**「産業基盤と不可欠施設」**である。鉄道、道路、水道、電力、通信といった公共インフラの建設や維持において、特定の特許技術がボトルネックとなり、その利用なしには機能維持が困難となる場合がこれに該当する。例えば、特定の通信規格がデファクトスタンダードとなり、その特許が利用できなければ国の通信網が麻痺するようなケースが理論上考えられる。

第三に、そして実務上最もハードルが高いのが、**「代替技術の不在」**という要件である。ガイドラインは、「同等の公共の利益を速やかかつ適切に確保できる代替技術が存在しないこと」を必須条件としている2。もし、特許発明よりも性能は若干劣るものの、公共の目的を達成しうる代替技術が存在する場合、特許権という財産権を侵害してまで第93条を発動する正当性は失われる。この「代替不可能性」の立証責任は、裁定を請求する側にあるため、実務上の障壁は極めて高い。

2.3 手続き的保障とプロセスの重層性

第93条の発動プロセスは、法治国家における適正手続(Due Process)の観点から、幾重ものチェック機能を備えている。まず、請求者は直ちに経済産業大臣に裁定を求めることはできず、必ず特許権者との事前協議を行わなければならない(前置主義)。これは、可能な限り私的自治による解決(任意許諾契約の締結)を優先する姿勢の表れである。

協議が不調に終わった場合、初めて経済産業大臣への裁定請求が可能となるが、大臣は独断で決定を下すわけではない。必ず「産業構造審議会」の意見を聴かなければならないと規定されている。この審議会には、法律、経済、技術の専門家が含まれ、公共の利益の緊急性と、特許権者が被る不利益のバランスを慎重に比較考量(利益衡量)する。さらに、特許権者には意見陳述の機会が十分に保障されており、一方的な権利剥奪を防ぐ仕組みとなっている。

2.4 第92条(利用関係)との質的相違

特許法には第93条以外にも強制実施権の規定が存在する。特許法第92条の「利用関係にある場合等の通常実施権の設定の裁定」である3。これは、自己の特許発明を実施しようとする際、それが他人の先願特許を利用(包含)している場合に、その他人の許諾なしには実施できないという技術的なデッドロックを解消するための制度である。

第92条の目的は、あくまで「産業の発達」という一般的な特許法の目的の枠内における調整である。後発の発明が優れた技術であっても、先発特許の存在によって死蔵されることを防ぐという産業政策的な意味合いが強い。対して、第93条は「公共の利益」という、産業政策を超えた国家的な緊急避難の性質を帯びている。そのため、第93条は経済産業大臣の裁定という政治的判断が介入する余地が大きく、第92条(特許庁長官の裁定)とはその権限の所在と重みが質的に異なっているのである。


第3章 グローバル・パテント・レジーム:TRIPS協定と南北問題

特許法第93条は日本の国内法であるが、その運用と解釈は、現代においては世界貿易機関(WTO)のTRIPS協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)という国際的な法的枠組みに強く拘束されている。1995年のWTO設立とともに発効したTRIPS協定は、知的財産権のグローバル化における最大の転換点であった。

3.1 TRIPS協定の成立と「最低基準」の義務化

TRIPS協定以前、特許制度は各国の裁量に大きく委ねられていた。多くの途上国は、食品や医薬品を特許の対象から除外することで、安価なジェネリック医薬品の流通を促進し、公衆衛生を維持していた。しかし、TRIPS協定はすべての加盟国に対し、技術分野の差別なく、原則として20年間の特許保護を与えることを義務付けた。これは、先進国の製薬企業やテクノロジー企業にとっては巨大な勝利であったが、途上国にとっては、安価な医薬品へのアクセスが閉ざされることを意味し、激しい反発を招いた。

3.2 第31条の「柔軟性」とその限界

TRIPS協定は、強力な保護を義務付ける一方で、各国の主権的権利として「強制実施権」を認める条項(第31条)を設けた。しかし、その発動には詳細かつ厳格な条件がリストアップされている。

  • 個別検討の原則: 強制実施権は、ケース・バイ・ケースで検討されなければならず、包括的な政令等での一括付与は認められない。
  • 事前交渉の義務: 緊急事態を除き、事前に特許権者と合理的な条件での交渉を試み、それが成功しなかったという実績が必要である。
  • 使用の範囲と期間の限定: 目的に必要な範囲と期間に限られる。
  • 十分な報酬: 特許権者に対し、当該許可の経済的価値に見合った適正な対価(ロイヤリティ)を支払わなければならない。
  • 第31条(f) 国内市場供給要件: ここが最大の争点となった条項である。第31条(f)は、強制実施権に基づく使用は「主としてその加盟国の国内市場への供給のために認可される」ことを求めている。

この第31条(f)は、先進国にとっては「強制実施権を利用したジェネリック医薬品の輸出攻勢」を防ぐための防波堤であった。しかし、医薬品の製造能力を持たない小規模な途上国や最貧国(LDC)にとっては、致命的な障壁となった。たとえ自国で強制実施権を発動したとしても、自国に製薬工場がなければ薬を作れない。他国から輸入しようとしても、輸出国側で強制実施権を発動して製造・輸出しようとすれば、それは「輸出目的」となるため、第31条(f)違反となってしまうのである。この「パラグラフ6問題(ドーハ宣言における項番号に由来)」は、TRIPS協定の構造的欠陥として認識されるようになった。

3.3 2001年ドーハ宣言:公衆衛生の優先

1990年代後半、サハラ以南のアフリカ諸国を中心にHIV/AIDSのパンデミックが猛威を振るう中、TRIPS協定による特許保護が治療薬へのアクセスを阻害しているとの批判が世界的に高まった。これを受け、2001年にカタールのドーハで開催されたWTO閣僚会議において採択されたのが「TRIPS協定と公衆衛生に関するドーハ宣言」である4

ドーハ宣言は、以下の原則を政治的に確認した歴史的文書である。

  • TRIPS協定は、加盟国が公衆衛生を保護するための措置をとることを妨げないし、妨げるべきではない。
  • 各加盟国は、強制実施権を付与する権利を有し、その根拠を決定する自由を有する。
  • 何が「国家緊急事態」にあたるかを決定する権利は各加盟国にあり、HIV/AIDS、結核、マラリア等の公衆衛生上の危機はこれに含まれる。

この宣言により、特許保護よりも人命救助(アクセス・トゥ・メディシン)が優先され得ることが国際合意として確立された。これは、TRIPS協定の解釈における「プロ・パテント(特許重視)」から「プロ・ヘルス(公衆衛生重視)」への揺り戻しであった。

3.4 TRIPS協定改正(第31条の2):制度的解決の試みと限界

ドーハ宣言で残された「製造能力のない国の問題」を解決するため、WTOでは長期間の交渉が行われ、2003年の「免除決定」を経て、2005年にTRIPS協定初の改正となる「第31条の2(Article 31bis)」の追加が合意され、2017年に正式発効した6

この改正により、所定の厳格な手続き(輸入国の必要性の通知、輸出国の全量輸出義務など)を踏めば、輸出目的での強制実施権の発動が可能となり、第31条(f)の例外が恒久化された。これにより、理論上は、ルワンダのような国がカナダのジェネリック企業に製造を依頼し、カナダ政府が強制実施権を発動して薬を製造・輸出することが可能となった。

しかし、このシステム(通称「パラグラフ6システム」)は手続きが極めて煩雑であり、ビジネスとしての採算性も低いことから、実効性には当初から疑問符が付けられていた。実際、この制度が利用された事例は、2007年のカナダからルワンダへのApotex社製抗HIV薬の輸出事例など、ごくわずかに留まっている。多くのNGOや途上国政府は、このシステムを「機能不全(unworkable)」と批判し続けている。


第4章 歴史的ケーススタディ:交渉のカードとしての強制実施権

強制実施権の真価は、それが実際に発動されること(実弾発射)よりも、その**「発動の可能性」を背景とした価格交渉力(抑止力)**にあると言われる。これを国際知財政治における「ダモクレスの剣」効果と呼ぶ。国家は、製薬企業に対して「適正価格に下げなければ強制実施権を発動する」という脅し(credible threat)をかけることで、特許権を維持させたまま実質的な価格引き下げを勝ち取ることができる。以下に、その歴史的ダイナミズムを示す二つの重要な事例を詳述する。

4.1 南アフリカ:PMA裁判と「世論」という武器(1998-2001)

1990年代後半、アパルトヘイト撤廃後の南アフリカでは、成人の5人に1人がHIVに感染するという破滅的な状況にあった。しかし、当時の標準的な抗レトロウイルス療法(HAART)の費用は患者一人当たり年間1万ドルを超え、平均年収を遥かに上回っていた。マンデラ政権は1997年、医薬品法を改正し、特許薬の並行輸入(より安い国から正規品を輸入すること)やジェネリックへの代替(強制実施権の活用を含む)を可能にする条項を盛り込んだ。

これに対し、南アフリカの製薬工業協会(PMA)と、メルク、グラクソ・スミスクラインなどを含む多国籍製薬企業39社は、この法改正が南アフリカ憲法およびTRIPS協定に違反するとして、1998年に南アフリカ政府を提訴した8。当初、米国政府やEUも製薬企業側を支持し、南アフリカに対して通商制裁の圧力をかけていた。

しかし、この訴訟は世界的な公衆衛生NGOである「国境なき医師団(MSF)」や、南アフリカ国内の活動団体「治療アクション・キャンペーン(TAC)」による大規模な抗議運動を引き起こした。「製薬会社が特許利益のために貧困層の命を奪っている」「利益か命か(Profits over People)」というスローガンは国際世論を動かした。法廷闘争の初日、プレトリアの裁判所周辺には数千人のデモ隊が集結し、その様子は世界中に報道された10

結果として、この訴訟は製薬企業側にとって「PR上の大惨事(Public Relations Disaster)」となった。企業イメージの失墜を恐れた製薬各社は、2001年4月、訴訟を無条件で取り下げるに至った11。この事件は、法的な勝敗以上に、公衆衛生のモラルが知的財産権の論理を凌駕した瞬間として記憶され、その後のドーハ宣言採択への強力な推進力となった。

4.2 ブラジル:「エファビレンツ」における戦略的活用(2007)

ブラジルは、強制実施権を最も戦略的かつ巧みに利用した国として知られる。ブラジル政府は、1996年からエイズ治療薬を国民に無償提供するプログラムを実施していたが、患者数の増加と新薬の高騰により、その財政負担は限界に達していた。

2007年、ブラジル政府はメルク社の抗HIV薬「エファビレンツ(Efavirenz)」の価格交渉において、タイ政府がメルク社から提示された価格と同等の水準(1錠あたり約0.65ドル)への値下げを要求した。しかし、メルク社は「ブラジルは中所得国であり、タイとは経済力が異なる」としてこれを拒否し、約1.57ドルを提示した。

交渉が決裂した2007年5月4日、ルーラ大統領は、エファビレンツに関して「公共の利益」に基づく強制実施権を付与する大統領令第6,108号に署名した12。これはブラジルにとって初の強制実施権発動であった。

結果と洞察:

  • コスト削減: ブラジルはインドのジェネリックメーカーから薬を輸入することで、年間約3000万ドル(当時のレートで約36億円)、2012年までの累計で約2億3680万ドルのコスト削減を実現した12
  • 国内製造: 単なる輸入にとどまらず、ブラジルの国営製薬研究所(Farmanguinhos)での技術確立と国内製造へと繋げた。
  • 波及効果(脅しの効果): この強硬措置は、他の製薬会社に対する強力なシグナルとなった。アボット社は、自社のHIV薬「カレトラ(Lopinavir/ritonavir)」について、同様の強制実施権発動を避けるため、ブラジル政府との交渉に応じ、発動されることなく大幅な値下げ(約46%減)に合意した15

このブラジルの事例は、「実際に発動する」という行動が、他の薬剤についての交渉を有利に進めるための強力なレバレッジになることを実証した。


第5章 COVID-19と新たな地平:「TRIPSウェーバー」の衝撃

2020年に発生したCOVID-19パンデミックは、既存の強制実施権システム(第31条、31条の2)の限界を改めて露呈させた。世界全体で数十億回分のワクチンが即座に必要となる中、個別の製品、個別の国ごとに手続きを行う従来の「ケース・バイ・ケース」のアプローチでは、パンデミックの圧倒的なスピードと規模に対応できないという批判が噴出したのである。

5.1 インド・南アフリカによる「ウェーバー提案」

2020年10月、インドと南アフリカはWTOに対し、COVID-19の予防・治療・封じ込めに関連する知的財産権(特許だけでなく、意匠、著作権、未開示情報を含む)の義務を一時的に免除(Waiver)する提案(文書番号IP/C/W/669)を行った17。これは、既存の強制実施権のような「例外措置」の積み上げではなく、TRIPS協定の義務そのものを一時停止するという、極めてラディカルかつ包括的な提案であった。

彼らの主張は明確であった。「パンデミックという未曾有の危機において、知財保護がワクチンや治療薬の増産を妨げるボトルネックになってはならない」。特に、mRNAワクチンのような新しい技術においては、特許だけでなく、製造ノウハウやデータ(未開示情報)の共有がなければ、他社が製造を開始することは不可能であるため、特許以外の知財も含めた包括的な免除が必要だと訴えた。

5.2 先進国の分断と米国の劇的な方針転換

当初、日本、米国、EU、英国、スイスなどの先進国(製薬大国)は、この提案に強く反対した。彼らの主張は、「知的財産権こそが、記録的な速さでのワクチン開発を可能にしたインセンティブであり、これを弱めることは将来のパンデミックへの対応力を削ぐ」というものであった。また、現下の供給不足の原因は知財ではなく、原材料の不足や製造設備の限界、サプライチェーンの混乱にあると反論した18

しかし、2021年5月5日、この膠着状態を打ち破る衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。バイデン政権の通商代表(USTR)であるキャサリン・タイ氏が声明を発表し、「このパンデミックは特別な状況であり、特別な措置を必要とする」として、COVID-19ワクチンに限定した知財保護の免除を支持すると表明したのである17

この米国の転換は、いくつかの要因が複合した結果と分析される。

  1. 人道的要請と国内圧力: 民主党左派(サンダース議員ら)や市民団体からの強い突き上げがあった。
  2. 地政学的競争: 中国やロシアが「ワクチン外交」を展開し、途上国への影響力を強める中、米国もグローバルサウスへの関与とリーダーシップを示す必要があった。
  3. 実利的な計算: ワクチンに限れば、ファイザーやモデルナなどの米国企業は既に圧倒的な先行者利益と製造能力を確保しており、仮に特許を開放しても、複雑なmRNA製造プロセスのノウハウ(暗黙知)が開示されなければ、直ちに競合他社が模倣品を作ることは難しいため、経済的損害は限定的であるという冷徹な読みもあったと考えられる。

一方、日本政府やEU(特にドイツ)、英国は慎重姿勢を崩さず、「強制実施権の既存ルールの活用や円滑化で十分対応可能」という立場を維持した。特に日本は、知財立国として特許制度の根幹を揺るがす免除には消極的であり、米国の方針転換後も即座には追随しなかった18

5.3 2022年閣僚決定:妥協の産物とその評価

激しい交渉の末、2022年6月のWTO閣僚会議(MC12)で合意された「TRIPS協定に関する閣僚決定」は、当初のインド・南アフリカ提案からは大幅に後退し、限定的な内容となった。

  • 対象: ワクチンに限定(治療薬や診断薬については、決定から6ヶ月以内に議論することとされたが、難航している)。
  • 内容: 知財権の完全な免除(Waiver)というよりは、第31条の強制実施権の要件(特に輸出制限)を緩和・明確化する内容に近い。
  • 適格国: 途上国加盟国すべてが対象だが、製造能力を有する国(事実上、中国を指す)は、この決定を利用しないことが期待されるという拘束的な文言が含まれた。

この決定に対し、市民社会(MSFやOxfamなど)からは「遅すぎて不十分(Too little, too late)」との批判が、製薬業界からは「イノベーションのエコシステムを破壊する悪しき前例」との批判が上がり、双方にとって不満の残る「痛み分け」のような結果となった。しかし、パンデミックという極限状況において、国際社会が知財ルールの修正に合意したという事実は、TRIPS協定の歴史における重要なメルクマールとなったことは間違いない。


第6章 日本への示唆と今後の展望:なぜ日本で第93条は発動されないのか

6.1 「抜かずの宝刀」の構造的要因

日本において、これまでに特許法第93条が発動された実績は皆無に近い(戦後の混乱期を除く)。HIV/AIDSやCOVID-19のような危機に直面しても、なぜ日本では強制実施権の発動という議論が表舞台に出てこないのか。その理由は、日本の医療・産業構造の中に組み込まれた、より洗練された調整メカニズムにある。

第一に、**「国民皆保険制度と薬価基準制度」**の存在である。日本では、承認された医薬品は原則として保険適用され、公定価格(薬価)が設定される。患者の自己負担は低く抑えられ、高額療養費制度などのセーフティネットも充実している。そのため、途上国で見られるような「薬が高すぎて買えない」という経済的アクセス障壁が、患者レベルで直接的な社会問題として顕在化しにくい。高額薬価の問題は、中医協(中央社会保険医療協議会)における薬価算定の議論として処理され、行政と製薬企業の間の価格交渉(薬価引き下げ)によって解決される。つまり、強制実施権という「劇薬」を使わずとも、薬価制度というツールで価格統制が可能なのである。

第二に、**「産業政策としての製薬産業育成」**である。日本は米国、欧州に次ぐ創薬大国であり、政府は製薬産業を次世代の成長産業として育成する方針を掲げている。そのような中で、政府自らが特許権を強制的に開放するような措置をとれば、知財保護への信頼を損ない、企業のイノベーション意欲を削ぐだけでなく、海外からの投資意欲減退を招く恐れがある。この「プロ・パテント(知財重視)」の国策が、第93条の発動に対する強い抑制圧力として働いている。

第三に、**「行政指導と任意許諾(Voluntary License)」**の文化である。日本において特許紛争や公益上の必要性が生じた場合、行政当局は法的な命令(裁定)を下す前に、水面下での調整(行政指導)を行い、当事者間での和解や任意許諾(クロスライセンス等)を促す傾向が強い。紛争を公にせず、話し合いで解決するこのアプローチにより、結果として第93条の発動に至る前に問題が解消されてきたのである。

6.2 経済安全保障と「有事」への備え

しかし、状況は変化しつつある。米中対立の激化やウクライナ情勢、パンデミックの経験を経て、「経済安全保障」が国家の最重要課題として浮上している。サプライチェーンの断絶により、海外からの医薬品や重要物資の供給が途絶した場合、国内で特許権を強制的に使用してでも生産しなければならない事態は、もはや理論上の空論ではない。

2022年に成立した「経済安全保障推進法」は、特定重要物資の安定供給確保を定めているが、特許法第93条もまた、この経済安全保障の文脈で再評価されるべき法的ツールである。特に、Pfizer社のCOVID治療薬「パキロビッド」に関する中国での交渉決裂と、MPP(Medicines Patent Pool)を通じたジェネリックライセンスの事例19は、有事におけるライセンス戦略の重要性を示唆している。日本企業である塩野義製薬なども、MPPを通じて低中所得国へのライセンス供与を行っており、企業のESG戦略としても「自主的な開放」が進んでいる。

6.3 結論:制度の存在意義と予見可能性

本分析から導き出される結論は、特許法第93条は「発動されないこと」をもって、その機能不全を意味するものではないということである。むしろ、この条項が厳然として存在し、極限状態では国家が介入するという可能性が法的かつ手続き的に担保されているからこそ、平時の任意交渉や薬価交渉における健全な緊張関係が維持されているといえる。ブラジルの事例が示したように、強制実施権は「使わないことで最も効果を発揮する」パラドキシカルな制度なのである。

今後の日本においては、第93条を単なる死文とせず、具体的な有事(パンデミック、バイオテロ、極端な供給不足、経済制裁による輸入途絶)における運用シミュレーションを明確化し、どのような条件で発動されるのかという予見可能性(Predictability)を、産業界および国民に対して高めておくことが求められる。それが、イノベーションのインセンティブを維持しつつ、真の「公共の利益」を守るための、法治国家としての智慧であろう。

(この記事はAIを用いて作成しています。)


参考文献(引用)

  • 4 外務省, “TRIPS協定と公衆衛生に関する宣言(ドーハ宣言)”
  • 1 e-Gov法令検索, “特許法第九十三条”
  • 2 特許庁, “公共の利益による通常実施権の設定の裁定に関するガイドライン”
  • 12 Brazil Government Decrees & PubMed, “Brazil compulsory license Efavirenz 2007”
  • 8 MSF Access Campaign, “South Africa PMA case 1998”
  • 18 JETRO, “TRIPSウェーバーに関するWTO閣僚決定と米国の反応”
  • 19 Health Policy Watch, “Overcoming Intellectual Property Barriers: COVID-19 & China”
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