「パテントクリフ」の恐怖:なぜ売上は8割も「崖」から転落するのか?

医薬品業界には、「パテントクリフ(Patent Cliff)」という言葉があります。日本語では「特許の崖」と訳されます。これは、新薬の特許が切れた途端、後発医薬品(ジェネリック)の参入によって、先発薬の売上が文字通り「崖から落ちるように」急激に減少する現象を指します。
冒頭のリピトールの例のように、売上が8割から8割5分も減少することは珍しくありません [Query]。なぜ、これほどまでに劇的な価格破壊と市場シェアの変動が起きるのでしょうか。
理由は、先発薬とジェネリック医薬品の「開発コスト」の圧倒的な非対称性にあります。
1000倍以上のコスト格差
まず、一つの「新薬」を開発し、市場に出すまでにかかるコストと時間を見てみましょう。
- 開発期間: 9年~17年
- 開発費用: 約260億円~360億円
候補物質の探索から始まり、動物での非臨床試験、そして人での安全性と有効性を確認する3段階の臨床試験(治験)という、長く困難なプロセスを経る必要があります。この莫大な投資と時間が、新薬の価格に反映されています。
一方で、「ジェネリック医薬品」の開発は、驚くほど低コストかつ短期間です。
- 開発期間: 3年~4年
- 開発費用: 約3,000万円~1億円
なぜ、これほどの差が生まれるのでしょうか?
それは、ジェネリックメーカーが、最もコストのかかる「臨床試験」を(原則として)行う必要がないからです。彼らに課せられているのは、主に「生物学的同等性試験(BE試験)」と呼ばれるテストをクリアすることだけです。
ジェネリックがクリアすべき「たった一つ」の試験
生物学的同等性試験(BE試験)とは、非常に簡単に言えば、「ジェネリック医薬品が、先発医薬品と“中身”が同じであることを証明する試験」です。
具体的には、健康な成人に先発薬とジェネリック医薬品を(時間を空けて)交代で服用してもらい、血液中の薬物濃度がどのように変化するかを測定します。このとき、
- Cmax(最高血中濃度)
- AUC(血中濃度-時間曲線下面積:薬が体内にどれだけ吸収されたかの総量)
これら2つの指標が、統計的に先発医薬品の「0.80~1.25」の範囲内に収まっていれば、「両者は生物学的に同等である」と認められます。つまり、「体の中での振る舞いが同じなのだから、効果も同じはずだ」と国が認めてくれるのです。
先発薬メーカーが10年以上の歳月と数百億円を投じて証明した「薬の有効性・安全性」のデータに、ジェネリックメーカーは「タダ乗り」できる。これがビジネス上の本質です。
開発コストが1000分の1以下なのですから、価格を8割引、8割5分引にしても、ジェネリックメーカーは十分に利益が出ます。
そして、患者さんにとっては効果が同じで価格が安い薬を、国にとっては医療費の削減につながる薬を、選ばない理由はありません。特に欧米市場ではこの傾向が強く、日本市場でも後発品の普及に伴い、先発薬メーカーへの影響は年々深刻化しています。
これが、「パテントクリフ」という崖から、先発薬メーカーの売上が一瞬で突き落とされるメカニズムです。
迫りくる脅威:競合は「特許切れ10年前」から準備を始めている
この記事を読まれている経営者や知財担当者の中には、「うちの主力製品の特許が切れるのは2030年だ。まだ6年も先だから、対策は2028年頃から考えればいい」と安心している方がいらっしゃるかもしれません。
もしそうなら、その認識は根本的に間違っています。
「特許切れの日」は、競争のスタートラインではありません。貴社にとっての「崖」であり、競合にとっては「ゴールテープを切る日」です。
彼らジェネリックメーカーや関連企業は、貴社が考えているよりも遥かに早くから、その「ゴールテープ」を切る準備を始めています。水面下では、すでに「影の戦争」が始まっているのです。
ある調査によれば、特許切れを見据えた競合他社の動きは、以下のようなタイムラインで進んでいます 。
- 特許切れの【10年~5年前】
- 原薬メーカー・商社が動き出します。彼らは、5年先、10年先の市場を見据え、貴社の特許薬の「有効成分(原薬)」を製造・供給できるサプライヤーの開拓や、原薬そのものの品質評価を開始します 。貴社の製品の「核」となる物質が、海外のサプライヤーリストに載り、価格交渉の対象になり始める時期です。
- 特許切れの【5年~3年前】
- ジェネリック医薬品メーカー(沢井製薬のような企業)が、本格的に開発に着手します 。彼らは、先ほどの原薬メーカーからサンプルを取り寄せ、どうすれば先発薬と「生物学的に同等」な製剤を作れるか、設計と試作を繰り返します。
- **CDMO(医薬品製造受託機関)**も、このビジネスチャンスを逃しません。彼らは公開されている特許情報から「もうすぐ切れる特許リスト」を作成し、ジェネリックメーカーに対して「我々ならそのジェネリック、受託製造できますよ」と提案活動を始めます 。
彼らは一体、何を「地図」にして、これほど周到に準備を進めているのでしょうか。
皮肉なことに、それは貴社が「会社の最重要資産」として金庫に保管している**「特許公報」**そのものです。貴社が多額の費用をかけて取得した「権利書」は、競合他社にとっては「製品の設計図」であり、「開発のロードマップ」として完全に公開されているのです。
彼らは、特許切れの「3~4年前」(ジェネリックの開発期間)から開発をスタートさせ、特許が切れる数ヶ月前には国の承認審査をすべて終え、あとは「Xデー」の午前0時を待つだけ、という状態に仕上げてきます。
貴社が「あと6年ある」と安心しているその裏で、グローバルな原薬サプライチェーンが構築され、無数の競合他社が製品の試作を終え、製造ラインを確保している。これが、特許切れと「同時」に市場が8割引の製品で溢れかえり、逃げ場のない「崖」が生まれる、もう一つの恐ろしい理由です。
「特許延長」という罠:防御策が「法的地雷原」に変わる時
この時点で、経験豊富な知財担当者の方からは、このような反論が聞こえてきそうです。
「うちは大丈夫だ。確かに主力の『物質特許』は2030年に切れる。しかし、その薬の『新しい製造方法(製法特許)』や『別の病気への使いみち(用途特許)』で後続の特許を固めている。それに、医薬品は開発に時間がかかった分、特許期間を最大5年間『延長』できる制度 も利用している。そう簡単には真似されない」
確かに、特許の「延長制度」や、製品の周辺を固める「後続特許」は、知財戦略の基本です。しかし、その防御策は、本当に「盤石な城壁」でしょうか?
残念ながら、それは「強固な城壁」というより、**「いつ爆発するかわからない法的地雷原」**である可能性が高いのです。
なぜなら、ジェネリックメーカーは、法律の専門家と組んで、その「城壁の隙間」や「地雷の不発弾」を探し出すプロフェッショナルでもあるからです。
特に「延長された特許権の効力が、どこまで及ぶか」という論点は、特許庁自身が詳細なQ&Aを公開するほど複雑で、解釈の幅が広い「グレーゾーン」です 。ジェネリックメーカーは、まさにこのグレーゾーンを突いてきます。
事例:東レ 対 沢井製薬(レミッチ®)
その典型的な例が、東レの掻痒症(かゆみ)治療薬「レミッチ®」を巡る特許紛争です 。
- 東レの防御: 東レは「レミッチ®」(一般名:ナルフラフィン塩酸塩)に関して、特許期間の延長登録を行っていました 。
- 沢井の攻撃: 沢井製薬は、レミッチ®と同一成分のジェネリック医薬品を製造・販売しました。
- 法廷闘争: 東レは、沢井製薬を特許権侵害で提訴しました。
- 沢井の反論: 沢井製薬は、「特許権の延長制度で延長された特許の『効力範囲』は、先発薬が国から承認された内容(特定の用途や製法)に厳密に限定されるはずだ。我々のジェネリック医薬品は、その厳密な範囲には含まれていない」と主張し、特許の無効を訴えました 。
この訴訟は、最終的に知財高裁で東レ側の勝訴となりました 。一見すると、「防御策が機能した成功例」に見えるかもしれません。
しかし、経営の観点から見れば、これは「消耗戦」の始まりに過ぎません。
ジェネリックメーカーにとって、このような訴訟は「織り込み済み」のビジネスコストです。彼らは、訴訟を起こされるリスクを承知の上で市場に参入し、仮に負けたとしても、別の隙間を探して次の攻撃を仕掛けてきます。
一方で、先発薬メーカーである貴社にとって、訴訟は「非常事態」です。勝訴したとしても、そこにたどり着くまでに、莫大な訴訟費用、弁護士費用、そして何より経営陣や研究開発部門の貴重な時間とリソースが奪われていきます。
貴社が「過去の特許」を守るために法廷で疲弊している間にも、市場では次々と新しい競合品が登場し、シェアはじわじわと奪われていくのです。
「特許で固めているから大丈夫」という安心感が、実は最も危険な法的リスクと経営コストを抱え込む「罠」になっているかもしれません。
回避策は存在した:大塚製薬「エビリファイ」が実行した「未来への製品移行」戦略
では、この「パテントクリフ」という名の理不尽な崖は、ただ指をくわえて待つしかない「天災」なのでしょうか。
いいえ、断じて違います。 これは、10年前からの戦略的な準備によって回避できる**「対策可能な人災」**です。
その見事な回避策を実行したのが、大塚製薬の抗精神病薬「エビリファイ」の事例です 。
エビリファイは、2012年時点で世界売上が年間6,400億円を超える、大塚製薬の屋台骨を支える超大型新薬でした。しかし、そのエビリファイにも、米国で2015年、日本で2016年という、巨大な「パテントクリフ」が目前に迫っていました。
崖から突き落とされて売上の8割を失うか、それとも生き残るか。大塚製薬が選んだのは、訴訟で「過去の製品」を守ることではなく、「未来の製品」へ顧客ごと移行させる、非常に賢明な戦略でした。
彼らが実行した「ライフサイクルマネジメント(LCM)」戦略は、大きく2つあります。
戦略1:新剤形(製品の移行)
エビリファイは元々、「毎日1回飲む『錠剤』」でした。この「錠剤」の特許が2015年頃に切れることを見越した大塚製薬は、特許が切れる前の2013年に、全く新しい製品を市場に投入しました。
それが、**「月1回投与の『注射剤』(エビリファイ メンテナ)」**です 。
これは、経営戦略として非常に重要な一手です。 患者さんや医師にとって、「毎日飲む」手間が「月1回」で済むようになるのは、非常に大きなメリットです。大塚製薬は、ジェネリックメーカーが「錠剤」市場に参入してくる前に、自ら、より利便性の高い「注射剤」を市場に投入し、患者と医師をそちらへ誘導し始めたのです。
当然、この「注射剤」は、元の「錠剤」とは異なる「新しい特許」で強固に守られています。
結果、どうなったか。 2015年になり、ジェネリックメーカーが満を持して「8割引の“錠剤”」を発売した時には、すでに市場の主流は、大塚製薬が作った新しい「“注射剤”」へと移行し始めていました。
ジェネリックメーカーは、大塚製薬が「能動的に捨てた」古い市場(錠剤)の、残りカスを奪い合うことしかできなくなったのです。これは、自社製品で自社製品の売上を食う(カニバリゼーション)ことを恐れず、市場そのものを「新特許」という安全地帯へ引っ越しさせた、見事な戦略です。
戦略2:適応症の拡大(用途特許の網)
同時に、大塚製薬は元の「錠剤」についても、防御の手を緩めませんでした。
エビリファイが最初に承認されたのは「統合失調症」という病気でした。彼らはその後も研究開発を続け、「双極性障害」、さらには「うつ病」「小児の自閉症」といった、別の病気への有効性も証明し、次々と国の承認を得ていきました 。
これが「用途特許」の網を張る戦略です。 仮にジェネリックが「統合失調症」の用途で参入できたとしても、もし「うつ病」の用途特許がまだ生きていれば、ジェネリックメーカーは自分たちの薬を「うつ病の治療に使えます」と宣伝・販売することが法的に難しくなります。
市場を「病気ごと」に細かくスライスし、それぞれに特許の「防護壁」を築くことで、ジェネリックの参入障壁をできるだけ高くしたのです。
h2見出し3の東レが「過去の特許」を守るために法廷で防戦していた一方で、大塚製薬は「未来の特許」で新しい市場を創出し、顧客をそこへ能動的に導いていました。
貴社の戦略は、どちらに近いでしょうか? 「崖」が目の前に来てから訴訟で防戦しようとしていますか? それとも、「崖」が来る10年前から、次の「新しい橋」を設計していますか?
崖を「橋」に変えるために、今すぐ始めるべきこと
ここまで、「パテントクリフ」という売上急落のメカニズム、競合が10年前から動いているという水面下の脅威、そして「延長特許」という防御策の脆さを見てきました。
大塚製薬「エビリファイ」の事例が示すのは、この「崖」は、決して運命ではなく、「能動的な戦略」によって回避可能である、という事実です 。
では、その「能動的な戦略」は、どうすれば実行できるのでしょうか。
必要なのは、法務部や知財部の引き出しに眠っている「点」としての特許管理ではありません。経営戦略や事業計画と完全に連動した、**「線」としてのIPライフサイクルマネジメント(IPLM)**という仕組みです。
IPLMとは、貴社が保有する知的財産(特許、商標など)を、その「ライフサイクル(誕生から消滅まで)」全体で管理し、ビジネス上の価値を最大化する経営手法です。
この仕組みが回っている会社では、経営者は常に以下の問いの答えを把握しています。
- 現状の可視化 (AS-IS): 我々の主力製品Aの売上のうち、あと何年間、どの特許によって守られているのか?(=売上カバー率)
- リスクの特定: その特許が切れる「Xデー」はいつか? その時、競合が参入してくるリスクはどれくらいあるか?
- 戦略の実行 (活用・収益化): 「Xデー」が来る前に、我々はエビリファイのような「後続品B(新剤形)」や「新用途C」を開発し、市場を移行させる必要がある。そのための研究開発と特許出願のタイムリミットは、今から何年前か?
特許情報という「未来を予測する地図」 を使い、自社の「知財カレンダー」と「経営カレンダー」を完全に一致させること。
これこそが、「パテントクリフ」というリスクに怯えることなく、未来の事業に安心して集中できる体制を築く、唯一の道です。
まずは貴社の「知財の現状(AS-IS)」 を正確に可視化し、製品ポートフォリオのどこに「崖」が隠れているのか、その「崖」の高さ(=失われる売上)はどれくらいかを確認することから始まります。
株式会社IPリッチでは、御社の知財戦略についてのご相談を受けております。お困りごとがございましたらお気軽にご相談くださいませ。
(この記事はAIを用いて作成しています。)
【参考文献リスト】 井上国際特許商標事務所. 「パテントクリフ(特許の崖)とは何か? 製薬業界が知るべきリスクと3つの対策を解説」. https://www.inoue-patent.com/post/patentcliff NPS成田予備校. 「パテントクリフ」. https://www.npsnaritayobiko.com/2024/11/13/%E3%83%91%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95/ Weblio英和辞典・和英辞典. 「patent cliff」. https://ejje.weblio.jp/content/patent+cliff 井上国際特許商標事務所. 「パテントクリフ(特許の崖)とは何か? 製薬業界が知るべきリスクと3つの対策を解説」. https://www.inoue-patent.com/post/patentcliff 福岡県. 「医薬品承認制度について」(PDF). https://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/365205_54083982_misc.pdf 日本ジェネリック製薬協会. 「JGA-NEWS No 131 知っ得!豆知識」. https://www.jga.gr.jp/information/jga-news/2019/131/07.html 厚生労働省. 「後発医薬品の生物学的同等性試験ガイドライン」(PDF). https://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/12/dl/s1216-9i05.pdf ちけんGO. 「【図解】生物学的同等性試験(BE試験)とは?方法・流れ・費用などをわかりやすく解説」. https://chiken-go.com/bioequivalence-testing-easy-to-understand/ Susumiru. 「【第3回】特許切れの先にあるビジネスチャンス」. https://susumiru.com/%E3%80%90%E7%AC%AC3%E5%9B%9E%E3%80%91%E7%89%B9%E8%A8%B1%E5%88%87%E3%82%8C%E3%81%AE%E5%85%88%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3/ 特許庁. 「特許権の存続期間の延長登録(第67条の7第2項)」(PDF). https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/guideline/patent/tukujitu_kijun/document/index/09_0200.pdf 特許庁. 「延長登録出願について」. https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/guideline/patent/extension_of_patent_term.html 特許庁. 「『医薬品等の特許権の存続期間の延長』に関するQ&A(令和6年1月4日)」(PDF). https://www.jpo.go.jp/system/laws/rule/guideline/patent/document/extension_of_patent_term/qa.pdf Vision00. 「東レ新薬が特許侵害で沢井製薬に大勝利」. https://vision00.jp/topic/10588/ Vision00. 「東レ新薬が特許侵害で沢井製薬に大勝利」. https://vision00.jp/topic/10588/ 知財弁護士.COM. 「≪後発医薬品が製造販売承認を受ける前に、特許権に基づく差止請求権等の不存在の確認を求めることは即時確定の利益がないと判断した事例≫」. https://www.ip-bengoshi.com/archives/6288 株式会社ミクス. 「大塚製薬・岩本社長 エビリファイ特許切れ控え LCMとCNS領域の次世代品創出を強化」. https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=43926 株式会社ミクス. 「大塚製薬・岩本社長 エビリファイ特許切れ控え LCMとCNS領域の次世代品創出を強化」. https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=43926 ロゴラボ. 「IPLM(知的財産ライフサイクル管理)とは?重要性と5つのフェーズを解説」. https://logo-labo.com/media/iplm

